Genthru

Genthru "花束を" Music Video公開!

Genthru(ゲンスルー)の代表曲「花束を」のMusic Videoがついに完成しました。

本記事では、公開にあわせて映像と歌詞が扱うテーマ「知ってしまったこと」と、そのあとに残る沈黙について、作品の見どころとあわせて整理します。

はじめに

ある種の作品は、語ることで痩せてしまう。
Genthruの「花束を」は、まさにそうした危うさの上に成立している。

静かな映像と、説明を拒む痛み

本作のミュージックビデオは、一見すると極めて静かな映像だ。

激しい出来事は映されない。決定的な瞬間も、明確な説明もない。
だが、それにもかかわらず——いや、それゆえに——観る者の胸に残るのは、説明を拒むような「確かな痛み」である。

中心テーマ:「知ってしまったこと」

中心にあるのは、「知ってしまったこと」だ。

歌詞に繰り返される一節は、この作品の倫理そのものを示している。

全部知らない方が良かったんだろうな。知らなければ友達だった。

名付けられない距離感

ここで描かれる関係は、分かりやすい恋愛ではない。
しかし単なる友情とも言い切れず、あるいは家族未満でありながら家族以上でもある、名付けることを拒む距離感にある。

その曖昧さこそが、失われたときの輪郭をより鋭く浮かび上がらせる。

終盤:触れられない再会

特に印象的なのは、終盤に訪れる“触れることができない再会”の場面だ。

そこにはカタルシスも、救済も用意されていない。
ただ、手を伸ばすことと届かないこと、そのあいだにある時間だけが、静かに提示される。

ラスト:歩き出すという事実

そしてラスト、花束を置いた人物は再度それを拾い上げ、やがて歩き出す。

この動きは希望と呼ぶにはあまりに控えめだが、それでもなお、「止まり続けること」を選ばなかったという事実だけが残る。

「乗り越える物語」ではない

重要なのは、この作品が「乗り越える物語」ではないということだ。

喪失は回収されず、理解も与えられない。
それでも人は生きてしまうし、時間は進んでしまう。

そのどうしようもなさを、本作は極めて誠実に引き受けている。

おわりに:静かな共犯関係としての作品

「花束を」は、多くの人に届く作品ではないかもしれない。
しかし、かつて言えなかった言葉を抱えたまま生きている者にとって、この映像は単なる作品ではなく、ひとつの“静かな共犯関係”として機能するだろう。

そしてそのとき、最後に残された花束は、誰かに向けられたものではなく、ようやく自分自身に手渡されたものとして、そこに在るのかもしれない。


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